宝石の国現パロ小説『海辺の放課後』

生ぬるい風が潮の匂いを運びながらゆるゆると僕の頬を撫で去っていく。空は雲ひとつない快晴で、僕は太陽の熱をじりじりと反射している真新しい舗装道路の上を軽やかに駆けながら鼻唄を歌っていた。僕の適当な旋律にあわせて紺色のセーラー服の襟が揺れている。
( セーラー服なんて今時、セピア色に褪せた昭和時代のポラロイド写真の中か、きらびやかな女の子たちの虚像が無限に溢れかえるフィクションの中くらいにしか存在しないっていうのに、僕の学校の制服はその昭和の遺物のなかでも、極めてヘンテコな形をしている。男の子も女の子も、穿いているのは丈の短い紺色のショートパンツ。学校は海の近くだし、何だか本当に水兵さんみたいな制服だ。)

学校がこんなに早く終わるのは久しぶりだった。いつもより時間の早い帰り道よりうきうきするものってないだろう。僕の真上にある夏日がコンクリートの路面を燦々と照りつけ、その度に光の粒がきらきらと踊る。特に予定があるわけじゃないけど何だかすっごく楽しい。ワクワクする。いやむしろ何にも予定がないから楽しいのかな~……なんて気楽な事を考えている僕を横目に、怖い顔で眉根をひそめているのは、僕の幼い頃からの友だち、辰砂(しんしゃ)。

「…お前ってやつは…楽しいからといってすぐ鼻唄を歌うな。子供じゃないんだから」

「ぶ~。先生みたいなこと言わないでよっ。全く~、真面目なんだから、辰砂は!」

「スキップもやめろ。お前が幼稚なだけだろ」

「いんだよ僕は!可愛いから!」辰砂のほうに顔を向け、わざとらしくウインクしてみせる。バチーン。

「そういう所が可愛くないんだ…」うんざりしたような顔で呆れ返り、まだ何やらぶつぶつ小言を呟いている辰砂は何だかいじらしく、僕はついあははは、と笑ってしまう。

そんないつも通りの他愛ないやりとりをしながら帰路を進むと、いつも通りの景色が真横に現れる。鬱蒼と茂る木々の間隙に現れたのは、海。潮の匂いが濃くなる。少し錆びた白いガードレールを隔てた向こうに青く青く無限に広がる、あまり波の立たない 大海原は、空との境目が曖昧で、まるで水色の絵の具で真っ青に塗りつぶされたキャンバスみたいだ。毎日飽きるほど見ている景色のはずなのに、この海の表情は見るたびに変わる。例えばいまの海は夏がくるのを喜んでいるみたいにきらきらしているけど、夕暮れに見る海はうすく紫がかっていて、やわらかく優しげに微笑んでいるみたいだし、夜の海は暗くて、空気も冷たくて、誰にもばれないように泣いているみたいだ。

どんな顔のときであっても、海はいつもどこか寂しそうだった。
僕はこの海を見るといつも、懐かしいような、おそろしいような、不思議な気持ちになる。僕は海のことを知らないのに、海は僕自身よりずっと、僕のことを知っているような……

説明のつかない、自分自身にもよく分からない、謎めいた感傷に耐えられなくなった僕は、隣を歩く賢い友だちに話しかけてみることにした。何となく、本当に何の根拠もないけれど、辰砂なら僕のこのよく分からない気持ちの意味を知っているかも。
辰砂は、受け答えは冷たく見えるけれど、いつも頭の悪い僕の疑問にちゃんと付き合ってくれるやさしい友だちなのだった。

「ねえ、辰砂」
「何」
「ここの海ってさぁ、あらためて見るとけっこうきれいだよねぇ」
「いつも通ってるだろ」
「そうだけどー。
ね、待って、歩くのはやい~!ちょっとくらい僕のおセンチに付き合ってくれてもいいでしょ!」
「……ふん。海がどうしたって」
「へへ。ありがと。あのね、ここの浜辺、殺風景でしょ。観光客とか、居るの見たことないし、夜なんか真っ暗でさ、こわいくらい静かで、僕、ここはあんまり好きじゃないって思うのに、見てるとなつかしい気持ちになるの。僕は、僕が僕になるずうっと、ずっと昔、こんな浜辺に居たような気がする。そういう思い出が最初から…生まれる前からあるような気がしてたまらない。けど全然……何にも思い出せない。小さい頃からずっとこうなんだ、海を見ると…ううん、海だけじゃない、冬の雪、図書館の本、満月。何だか悲しくて、悲しくて、たくさんの大切ななにかを失ってしまったみたいな気持ちになる、これが何なのか、自分でも分かんないんだ。変かなぁ、僕」

辰砂は一瞬真面目な顔になって押し黙ると、

「…まあお前は、ちいさい時も変な柄のナメクジを拾ってきたかと思えば、『ナメクジが喋った』だの何だのと騒ぎ散らすようなやつだったからな、またそういう類のポップな幻覚なんじゃ」

「ええぇ~~~!!!ひど~い!僕、めっちゃまじめに喋ったのに!辰砂~!!」僕がおおげさに喚くと辰砂は、悪戯っぽい笑みをわずかに浮かべ「冗談、冗談。」と言って僕のほうに向き直った。


「…なんて、笑い飛ばしたいところだったが。俺にも覚えのある話だ。」僕はごくりと唾を飲んだ。辰砂はいつにも増して真剣な眼差しで僕を射抜くように見つめている。寡黙で聡明で、そしてやさしい辰砂の瞳が、何かを語らんとするように、真っ赤に光ってみえた気がした。


「これは運命的な偶然なのか、それとも単なる思春期特有の感傷なのかは俺にも分からないが。俺もこの海を前にするとお前と同じようなことを思うよ。ただお前みたいに、なつかしい、とかそういう温かみのある感覚ではない。俺は…俺は、海を見ると、淋しいと思う。自分が世界に一人ぼっちで取り残されているような気分になる。俺はあのさざ波の中に、孤独の影を見る。海は、孤独の濁流の中に俺の心を飲み込んでしまう。海を見るのは、嫌いだ」

苦虫を噛み潰したような表情で、すこしずつ、ゆっくりと、でも着実に、自分の苦しさを言葉にかえて吐き出す辰砂を目の前に、僕はすっかり言葉に詰まってしまった。僕は辰砂にいやなことを思い出させてしまったのかもしれない。ごめんね、の「ご」を発音するために息を吸った瞬間、


「人間には、」


背後から重たく低く、しかし確かな愛情の籠った、慣れた声音が響いた。

「先生」

僕も辰砂も安心して顔を綻ばせつつ、その人を振り返った。僕たちの先生。といっても、学校の先生ではなく、僕たちの暮らす孤児院の院長さんなのであった。僕たちの先生でもあり、お父さんでもあるその人は、端正に整った薄い唇をゆっくりと開く。


「…人間には、必ず、その人一人しか知らない孤独がある。ある人間を絶望させ、ある人間に恋愛を生み、時には美しい詩や音楽の根源ともなるそれを、我々は淋しさと呼ぶ。
おまえたちが今、そのように悩んだり苦しんだりするのは、言葉によって自分というものの輪郭が明らかになりつつある時に、自らの孤独に自覚的になっているからである。何も心配することはない。それはおまえたちにとって、必要で正しい成長の過程だ。悲しむのも、忘れるのも、自然でいなさい」

先生はおおきな両手で僕たちの頭をそっと撫でた。
先生の手はあたたかく、ごつごつしていて、何者からも僕たちを守ってくれるであろう安心感があった。さっきは悲しそうにしていた辰砂も、先生の言葉にほっとしたようで、仄かに笑顔を浮かべていた。僕は先程までの張り詰めた空気を誤魔化せるように、辰砂を元気づけられるように、思いきりニッと笑って、明るい声で叫んだ。

「よ~~~し、海まで競争!負けたら、ジュースね!」

勢いに任せて靴を脱ぎ、ガードレールを飛び越えて、僕は砂混じりの海風を突っ切りながら、白浜を駆け出したのだった。



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俺の、すこし抜けてはいるが誰よりも純粋に優しく、馬鹿な友だちが、ものすごい俊足で砂を蹴って走る後ろ姿を見送りながら思った。おまえには、海も月も、図書館の本も、冬の雪も、よく似合う。


玻璃。いつかおまえは、教えてくれた。玻璃って、ガラスのことなんだよ。先生のくれた名前。僕すっごく気に入ってるの。ガラスって、なんか脆そうだけどね。



ふと、足元の砂の中にちいさな薄荷色の破片を見つけ、拾い上げる。それはさらさらとした手触りの、丸みを帯びたシーグラスだった。それは太陽の光に翳すとより透明がかかり、ミント色の氷のようにきらきらと白く瞬いた。かつての仲間、友だちになれたかもしれない西の浅瀬色。なあ、玻璃。覚えているか。おまえと俺が、水銀の毒で隔てられていた頃のこと。夜の中を永遠にさ迷っていた俺のこと。おまえが俺に手を差し伸べてくれたこと。


フォスフォフィライト。
いいんだ。おまえはそれでいい。思い出すことなんかない。おまえが失い、悲しみ、壊れてゆくところはもう、見たくない。

俺たちは、いまは石でも骨でもない。だから命は永遠ではなく、いつか必ず、平等に、俺たちには死が訪れる。おまえも、100年もしないうちに死んでしまうのだろう。だから、それまではせめて。無知のままで。なにもかも楽しいままで、この海辺の放課後を。